善光寺如来

善光寺如来について

御開帳

従来は秘仏としてご開帳しておりませんでしたが、百十数年ぶりに1998年から毎年4月末にご開帳をいたしております。400年以上の歴史をぜひその目でご覧になってください。ご開帳祈願にご参加を希望の方はお電話にてお問い合わせをお願いいたします。

4月26日 開白法要 午前11時
4月30日 結願法要 午後4時

秘仏 三福寺善光如来縁起

長野善光寺の御本尊、一光三尊阿弥陀如来様がインドでお生まれになってから百済国を経て日本へ伝わり、善光寺が建立されるまでの歴史をあらわした物語を『善光寺縁起』といいます。

『善光寺縁起』によると、当山の御本尊は1195年(建久六年)尾張の僧定尊(じょうそん)が、夢の中で如来様に「秘仏長野善光寺如来の分身仏を鋳造せよ」というお告げを得て、69,000人の職人とともに1ヶ月で鋳造した48躰のうちの1躰といわれています。1568年(戦国時代)に信助法師によりこの御本尊が入山し、人々の諸願をかなえる如来として古くから信者を集めてきました。

『善光寺縁起』より三福寺善光寺如来の件(くだり)

謹みて、この尊厳を當山に安置奉る由縁を尋ねるに、西暦1183年、治承6年(寿永2年)人王82代法王後鳥羽院之御字、(建久年間尾州愛知郡熱田の郷にて定尊(じょうそん)と申す沙門のをわしけるが、其性賢く殊に信心堅固にして念仏勤行怠りなく在しける。然るに、1194年建久5年寅4月6日念仏を唱えながら暫く眠り給ふ。然るに善光寺如来夢に入曰く、我は信州善光寺より来る也、汝時日を移す。我寺へ参詣すべし告げ玉ふと夢覚め、定尊は大いに驚き、我は年来善光寺如来奉る処、感應在りて、掛ける御告げ蒙りたり、今余乎御尊躰を拝し奉らんと悦び、夫れより遥々信州善光寺へ詣で3ヶ月の間籠らせ玉ふ、時に同1194年建久5年10月15日定尊歓喜の掌を合わせ頭首を垂れ涙をむせび身の毛もよだち、有難く覚えける処に如来奇妙な御声を似て告げて曰く、汝是より6万人9千人を勤め其信施を集め金銅にて我が姿を、48躰鑄て、48人の僧を集め48日の法会を修行し開眼供養を遂げ、48躰の御仏全く御成就あそばされ、信州善光寺へ奉納せられる時に此の本尊、相模の國大住郡沼目村三福寺に移らせ玉ふと、来歴は永禄年中に朝比奈兵助と云う侍在りて、信州川中島戦争1553年天文22年の砌乱軍に討死せり、爰に不思議成る哉。

軍は1568年 永禄11年2月朔日の事になるに、其の夜兵助蘇生して暫く眠りけるに妙へなる御聲にての玉く、 「我は是れ目頃汝が念ずる処の善光寺の阿彌陀仏なり、夢覚めて大いに驚き、双眼に泪を浮かべ、今汝が命に替えたりと告げさせ玉ふ」直ちに善光寺に参詣し、程なく出家を遂げ法名を信助法師と申しける。其の後に只一向に念仏して彌々信心深かりしが實に光隠移り安く、同年10月朔日の夜一光三尊の如来枕上に立て玉ひて日く、我れ此地にて衆生濟度の縁うすし、我有縁の地は、相模の國大住郡沼目村三福寺なり、彼の地に早く我移すべしとの仏勅にて、直に法師の背に移り玉ふと思えば夢覚め益々信心膽に徹し、婦り背ひ奉り、1568年永禄11年10月15日に當山に御入有り、夫より日々に霊験あらたかにし、月々栄ける最も誠哉。一切衆生に利益を施し玉わんが為に、定尊へ直の仏勅にて48願の旨を顯し、48躰の出現在りて、其一躰分身の御仏當國有緑の尊像なれば一度拝礼結縁の輩は現世には必ず護念に預り、水火病厄等免れ、當来には安養の淨刹に引接し玉はんとの御誓願在々、故に歩を運び祈誓の掌を合いする人々の諸願満足せずと云うことなし、依って結縁の為に畧して爰に記し畢ぬ。

   
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